全体主義と小説の精神(クンデラ)

全体主義と小説の精神(クンデラ)

リード(問いでもある)
 小説は全体主義と両立できない。それはなぜか。

キーワード(3つまで) 
 小説の死 全体主義 唯一の真理

引用文掲示
 人間的事象の相対性と両義性に基盤を置く世界のモデルとしての小説は、全体主義の世界とは両立できない。この非両立性は異端派と共産党幹部、人権擁護派と拷問者をへだてる非両立性よりもさらに根深い。なぜなら、この非両立性は政治的もしくは道徳的であるばかりか、存在論的なものだからだ。これは唯一の〈真理〉に基づく世界と両義的かつ相対的な小説の世界とは、それぞれまったく別の質料によってつくられているということに他ならない。全体主義的な〈真理〉は相対性、懐疑、問いかけを排除し、したがって私が小説の精神と呼びたいものとは断じて和解できないのである。(クンデラ2016:26)
 スターリン主義の帝国では、小説史はほぼ半世紀前に停止している。したがって、小説の死というのはなんら根拠のない考えではなく、すでにじっさいに起こったことなのだ。そして私たちは今や、小説がいかにして死にかけるものかを知っている。つまり小説は消滅するのではなく、その歴史が停止し、あとに残るのがただ反復の時代であり、そこでは小説がその固有の精神を取りのぞかれた形式を再製するのみである。だからそれは誰にも気づかれず、誰にも衝撃をあたえない、隠された死になるのだ。(クンデラ2016:27)

出典 
ミラン・クンデラ『小説の技法』第1部「評判の悪いセルバンテスの遺産」 西永良成訳、岩波文庫、2016、9-34ページ。

文脈
 小説の意義は全体主義の中では失われてしまう。

論点
(1)全体主義とは何か。
(2)スターリン主義とは何だったか。
(3)小説が全体主義と衝突するのはなぜか。
(4)日本は全体主義ではないか。そう言える理由は。

ディスカッション
 ここで語られているのは、全体主義における発禁、検閲、イデオロギー的圧力による小説の終焉である。小説というジャンルがなくなるわけではなく、ありきたりのパターンをひたすら反復するだけになって、次に開くべき局面が現れなくなってしまうということである。お決まりのパターンを何度でも繰り返すだけの、スタイルとして意外性のないマス・プロダクトな小説群は夥しい数量で生産され続けるだけで、世界認識の新しい局面を切り拓くことがないというのである。
 アメリカのバイデン大統領は中国とロシアをまとめて「専制主義」と呼んでいる。ちがいは何だろうか。全体主義という言葉は、もともとイタリアのファシズムが自分たちの思想を表す言葉として作られたもので、第2次世界大戦の三国同盟(ドイツ、イタリア、日本)と社会主義国ソビエト連邦を総称する政治思想である。その点では「全体主義」は歴史的概念と言える。では「専制主義」はどうだろうか。

文献情報(読書案内)
 全体主義について定番の文献は、ハナ・アレント『全体主義の起原』全3巻、みすず書房、1972-1974年。ドイツのナチズムとソ連のスターリニズムを分析した研究書。ただし、ついでに読める本ではない。この本の解説書として挙げられるのは、仲正昌樹『悪と全体主義──ハンナ・アーレントから考える』NHK出版新書、2018年。発音としては「ハナ」が近いのであろうが、一般的には「ハンナ」と呼ぶことが多い。歴史的背景についても解説してくれる入門書である。

タグ(ラベル)
#小説の死 #唯一の真理 #全体主義 #アレント #クンデラ #ナチズム #スターリニズム #専制主義

執筆者 野村一夫
マルジナリア(あなたのノート)




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