『ドン・キホーテ』が発見したこと(クンデラ)

『ドン・キホーテ』が発見したこと(クンデラ)

リード(問いでもある) 
 セルバンテスに始発点を持つ、小説の伝統と進歩。これこそが忘却された生活世界を掘り起こしてきたとクンデラは主張する。

キーワード(3つまで) 
小説 日常性 自明性

引用文掲示
 じっさい、ハイデガーが『存在と時間』の中で分析し、これまでの哲学全体によって打ち捨てられていると判断した実存の主要なテーマのすべては、この四世紀のヨーロッパの小説によって明るみに出され、示され、解き明かされてきたのである。小説は固有の仕方、固有の論理によって、人生の様々な諸相を一つひとつ発見してきた。すなわち、セルバンテスの同時代人たちとともに冒険とは何かを問い、サミュエル・リチャードソンとともに「内面に生起するもの」を検討し、秘められた感情生活を明るみに出しはじめ、バルザックとともに〈歴史〉に根ざす人間を発見し、フローベールとともにそれまで「未知の大陸 terra incognita」だった日常性を探求し、トルストイとともに人間の決断と行動に介入する非理性的なものに関心を寄せた。小説は時間を測定して、マルセル・プルーストとともに過去の捉えがたい瞬間を、ジェームズ・ジョイスとともに現在の提えがたい瞬間を測定した。トーマス・マンとともに時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた、等々。(クンデラ2016:13-14)

 小説は近代の端緒からたえず人間に忠実に伴ってきた。この端緒から、「認識の情熱」(フッサールがヨーロッパ的精神性の本質とみなす情熱)が小説にとりついて、小説は人間の具体的な生活を吟味し、これを「存在忘却」から保護して、「生活世界」に絶え間なく照明をあてることになった。この意味において、ただ小説だけが発見できることを発見することこそ小説の唯一の存在理由だ、と執拗に繰りかえし述べたヘルマン・ブロッホを私は理解し、彼に賛同する。それまで未知だった実存の一部分でも発見しない小説は不道徳であり、認識こそが小説の唯一のモラルなのだ。(クンデラ2016:14)
 小説はヨーロッパの所産であり、様々な言語でなされていても、小説の諸発見はヨーロッパ全体のものだということである。諸発見の継承(すでに書かれたものの加算ではない)こそがヨーロッパの小説史となっているのであり、このような超国民的なコンテクストにおいてのみ、一つの作品の価値(つまりその発見の射程)が十全に検討され、理解されるのである。(クンデラ2016:14-15)

 神がそれまで宇宙とその価値の秩序を統御して善悪を区別し、それぞれの事物に一つの意味をあたえていた場所からゆっくりと立ち去ろうとしていたとき、ドン・キホーテは家の外に出てみたものの、世界を世界として認識することがもはやできなくなっていた。〈最高審判者〉がいない世界は、突如恐るべき両義性をまとって現れ、神の唯一の〈真理〉は多数の相対的な真実に解体されて、人間たちがそれを分かちもつことになった。このようにして近代の世界、それとともに近代のイメージとモデルとしての小説が誕生した。(クンデラ2016:15)

出典
ミラン・クンデラ『小説の技法』第1部「評判の悪いセルバンテスの遺産」 西永良成訳、岩波文庫、2016、9-34ページ。

文脈
 フッサールがヨーロッパ的精神とみなす「認識の情熱」つまり「総体としての世界を問題として認識したい」という思考には、小説という系譜も存在するというのだ。そしてそれは近代の生活世界の方に照明を当てる。

論点
(1)「認識の情熱」とは何か。 
(2)小説が発見したものは何か。
(3)神なきあとの世界に対するヨーロッパ人のうろたえとは何か。

ディスカッション 
 一般的に小説はそれぞれの地域や国の環境や生活や風俗を描き出すと思われてきたと認識していたが、それは世界そのものを認識したいという、もう一つの方法だということだ。では、なぜそうした認識への欲求が小説というスタイルに結晶することになったのか。
 ここで述べられているのは、神なき世界としてのヨーロッパ近代のスタートラインで生じた認識上の混乱である。この混乱はおそらく視覚障害のあった人が手術によって視野を獲得したその瞬間に生じる混乱のようなものだと思う。あるいは逆に眼の病気によって視覚を喪失した人に生じる混乱のようなものかもしれない。後者については、梅棹忠夫『夜はまだあけぬか』(講談社文庫、1995年)に詳しい記述がある。あるいは幼少から幽閉されたまま育ったカスパル・ハウザーの例。しかし、ミクロな場面にフォーカスしていくと、それが必ずしも特殊な経験でないことはあきらかである。夏目漱石『三四郎』に始まる、地方の農村から都会に出てきた青年たちが共通に体験する混乱を想像してみればいい。これは前近代的社会から近代的世界に降り立った人間に共通する体験である。
 このような事態をより一般化すると、現象学とその後継者たちが「自明性の喪失」と呼ぶ現象に他ならない。「自明性の喪失」は社会学でも広く使われている捉え方である。
 新型コロナ禍にある現在の東京においても「自明性の喪失」による認識の混乱は続いている。時間と空間を共有し皮膚感覚で交流することによって親密な関係を築いてきた人たちの自明性は、ちょうど「図と地の反転」のように感染対策上の回避事項になっている。そういうとき、新しい状況において従来の認識を切り換えられない人たちや、ビジネスモデルを切り換えられない組織の人たちが、どうしていいかわからないまま居直ってみせることで感染は拡大し混乱がますます複雑化する。みんなパンデミックに投げ出されたドン・キホーテなのだ。

 文献情報(読書案内) 
  このさい『ドン・キホーテ』とはどんな作品だったのか確認するのもよいだろう。セルバンテスのこの長編小説を短く編集した文庫がある。それでも400ページあるが。野谷文昭編『セルバンテス』集英社文庫ヘリテージシリーズ。

 タグ(ラベル) 
#小説 #自明性 #日常性 #クンデラ #ドン・キホーテ

執筆者 野村一夫
マルジナリア(あなたのノート)



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