小説における多声性と不確実性の知恵(クンデラ)

小説における多声性と不確実性の知恵(クンデラ)

リード(問いでもある) 
 近代の扉が開いたばかりの混乱のなかで際立つのは多声性である。これまでは伽藍いっぱいを満たしてきた絶対者の声が相対的に小さく残響するように変化していく過程で、そこに置かれた人たちはくちぐちに問い・怒り・泣き叫ぶ。それら多数の声は、相互に反応し合って、複雑な残響を構成していく。

キーワード(3つまで) 
多声性 どちらかでなければならない 不確実性の知恵

引用文掲示 (著者名2016:227)
 セルバンテスとともに世界を両義性として理解し、唯一の絶対的な真理ではなく、互いに異論を唱え合う多数の相対的な真実(登場人物と呼ばれる想像的自我に体現される真実)に直面しなければならず、その結果、唯一の確信として不確信性の知恵をもつようになるのにも、やはり大きな力が必要とされる。(クンデラ2016:16)

 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ・カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。
 この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。(クンデラ2016:16)

出典
ミラン・クンデラ『小説の技法』第1部「評判の悪いセルバンテスの遺産」 西永良成訳、岩波文庫、2016、9-34ページ。

文脈
 近代小説が人びとに伝えるものは何か。それは「不確実性の知恵」とも呼ぶべきものである。

論点
(1)最高審判者とは何か。
(2)小説が多声性を持つとは具体的にどういうことか。
(3)小説の知恵とは何か。

ディスカッション
 小説の登場人物は作者によって創作された自我である。それら想像上の自我は小説空間の中でくちぐちに現状認識を語り、自分の心情を語る。同意する他の想像的自我があるかと思えば、ムキになって反論する想像的自我もある。小説空間において絶対的なワンヴォイスは存在しない。読者がそのような小説空間にひとたび入るや、相対的な真実が浮遊する世界を受け入れざるを得なくなる。
 結論が宙に浮いた状態に耐えられないという無能さ。むしろ「宙ぶらりんの恐怖」と呼ぶべきか。
 推理小説のように必ず結論に導いてくれるスタイルが好まれるのは、一度読み出したら結末まで読まないとおさまらないのは理の当然とも言える。「宙ぶらりんの恐怖」から逃げ出したいから。結末が存在するという確信があるから。
 物語構造が繰り返し使用される作品群が並列的に林立するのも「和解」の仕方なのだろう。キャンベルの言う「ヒーローズ・ジャーニー」にせよ折口信夫の「貴種流離譚」にせよ、物語のプロットはある程度収斂する。収斂するから物語だとも言える。物語において読者はある程度の予測を立てて読むから、途中で投げ出さない。
 この場合、解決へ向かっているのだと確信できることが重要で「すべては回収される」との確信があるから「宙ぶらりんの恐怖」に耐えられるのだ。ジェットコースター(絶叫マシン)もかならず帰還できるから耐えられる。この場合はむしろ「システムへの信頼」と言うべきなのかもしれないが。

文献情報(読書案内)
 ここで紹介されている小説は、1つはトルストイの『アンナ・カレーニナ』であって、カレーニンはアンナの夫の名前である。「無実なK」とはカフカの『審判』の主人公であって、突然逮捕され裁かれる銀行員の物語。この文脈ではカフカを読んで考えるのが最高だが、その前の読書案内として、頭木弘樹編著『絶望名人カフカの人生論』新潮文庫がおすすめできる。絶望名人カフカのアンソロジーである。

タグ(ラベル)
#多声性 #どちらかでなければならない #不確実性の知恵 #クンデラ #宙ぶらりんの恐怖 #貴種流離譚 #ヒーローズ・ジャーニー 

執筆者 野村一夫
マルジナリア(あなたのノート)

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